違いは間違いではない
家事シェアの壁になるのが、
家事への
認識のズレ(運ぶだけがゴミ出しじゃない!)
やり方のズレ(たたみ方が違う!)
結果のズレ(これで片付けたとは言わない!)
という3種のズレ=違い。
それまで別の生活をしてきた人間が一緒に住み始め家事を共同しようとすると、アレやコレやとズレや違いがあるのは当然。
違いがあるのが当たり前
その違いを埋めるには、違いを受け容れ(diversity)、それを活かす(inclusion)方向へと話し合うことが必要。
ここでよくあるのが、「私のやり方が正しい」「普通こっちだろ」「こうするのが当たり前」という具合に、正しいか?間違っているか?で寄り切るパターン。その場で、しかも短時間に解決する必要に迫られることもある家事では、「とりあえず」の方法が採用される場面が多々。そして、それがその後も続く。得てして「家事をやらねば」と思っている方の論理が通りがちであり、寄り切られた側も、「そこまで言うのなら…」「それで良いのなら…」といちいち蒸し返すこともなく、そのままズルズルと。
でも、違いは間違いではない
同じなら共感を得られる。
一方、
違いは気付きを得られる。
(参考:日本人のコミュ力の低さは「国民性」ではない。「こどもかいぎ」で気づいたこと https://gendai.media/articles/-/97774?page=3)
違いが、多様性の確保であったり、選択肢の幅を広くする。果てしないワンオペ家事を回避するには、家事の多様性を認め受け容れないと無理。ワンオペ家事は避けたい、でも、他のやり方は認めないというのは現実的ではない。
夫婦間での家事シェアであったり、親子での家事シェア、兄弟での家事シェアもあれば、ルームメイトとの家事シェアもある。事業者を入れての家事シェアなど、家事シェアにもいろんなスタイルがある。他人との共同作業において、100%思惑通りに物事がすすむことなどもともと無理なはなし。ましてや、長年染み付いた生活スタイルなど、そうそう変えられるものではない。
違いを受け容れ、それを活かすには、対等に意見を出し合い、美味しいところどりができる歩み寄りや合意や納得の形成が必要(民主主義)。一人が決定権を握ってしまうと(独裁政権)、他者は指示待ち人間になり、自分からやらなくなります。「どうせやっても、文句言って自分でやり直すかやり直しさせる。だったら、自分からやらない方が楽」になる。「いちいち『これやって』と言わないとやらない」のは、こういう構造でしょう。
違いは間違いではない
とはいえ、違いと間違いは、なぜ、似たような言葉になってしまったのでしょうか?少なくとも「違」という同じ漢字を使うようになったのでしょうか?英語だと、違いはdifferenceで、間違いはerror、mistake、slip…という具合にぜんぜん違う言葉になるのですが。
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