「家庭の味」とは?


4月3日付の毎日新聞夕刊に「スーパーのレストラン化 外食・中食・内食 消える境界」という記事がありました。中食と内食を提供しているスーパーもこのままでは先細り。そこで、コンビニのイートインのように、スーパーでもその場で食べられる形態が登場していると、事例としてイオンモール座間が紹介されていました。

その記事の後半は「失われる?『家庭の味』」という見出しで、共働きや単身世帯、高齢世帯の増加が、家庭で調理をすることから離れる背景になっていると紹介されていました。記事の最後は「時代とともに食は変化する。それは仕方ないことだ。だが、『家庭の味』が幻にならないか、少し心配にもなる」としめられていました。

さて、ここからは僕の見解。とくに気になったのは「家庭の味」。そもそも「家庭の味」とはなにをさすのでしょう?

この記事の記者(宇田川恵さん)の流れからいうと、いわゆる塩加減など味覚に関する「味」ではなく、誰がどこで調理したモノを、どこで食べるか?という点から「家庭の味」を指しているのでは?と読み取れます。つまり「家庭の味」とは、「家族が、家で調理したモノを、家で食べる」を指しているのだと思います。

僕はこの意味での「家庭の味」は、消えて無くなる可能性が高いと考えます。

これを衣食住の食以外でみると、わかりやすいでしょう。例えば、衣類の裁縫。古来、衣類は自分たちで材料を集めるところから始め、自分たちで縫っていました。やがて材料を扱う毛皮商や反物商が登場し、やがて縫製まで生産されたモノを買うようになりました。料理を外食・中食・内食を区分するように、裁縫を外縫・中縫・内縫と分けるなら、衣類に関してはほぼ100%外縫といっていいでしょう。なかには、自分で縫うことをレジャーとして楽しむ人や、自分も生産者(外縫)の一員として活動する人がいます。僕は家庭における料理もいずれはレジャー化すると考えています。家を建てることも、例えばログハウス建築のようなレジャーとして楽しむ人がいるようにです。料理がこんにちまで内食できたのは、調理インフラの整備と家電の普及。そして、家を建てたり修繕したり、衣類を縫製したりするよりも比較的簡単だったからです。

話を食にもどします。「家庭の味」が無くなることは善し悪しの問題ではなく、「店がない」「金がない」というような必要性や「どうしても作りたい」という嗜好の問題です。家事の歴史的な流れをみると、料理だけが内製でなければならない理由は見当たりません。

「スーパーのレストラン化」もその方向性次第だと思います。

「家庭の味」でキーポイントだったのは、調理を「誰が」「どこで」したか?そして「どこで食べるか?」。スーパー内のレストランの厨房が客からもよく見えれば、例えば「担当の佐藤さんが揚げた豚カツ」「スーパータナカの鈴木さんが焼いた塩鯖」というように特定できます。作る方も、食べ手の姿が見えます。スーパーに行くと、野菜に「私が育てました」という生産者紹介が付いている場合があります。それと似たような、むしろそれよりも近い「あの人が作った」「あの人が食べる」という距離感がうまれます。これは、「家族が」まではいかないまでも、「工場の知らない人が」よりは、はるかに近づきます。塩鯖を焼いたスーパータナカの鈴木さんが、実は子どもの友達のお父さんだとわかると、さらにグッと近づけます。

僕の家事のスタンスは「家事は楽しい生活のための手段」。このスタンスからいうと、食事で大切なのは楽しい食卓であること。家庭でも孤食の時代。一人暮らし世帯も増えている。一人でも楽しければそれでイイのです。不愉快な人と一緒に食べても、美味しいはずがありません。僕は主夫として、日常的に家族のご飯を調理してはいますが、一番大切にしたいのは、楽しい食卓かどうかであること。おかずの品数やどこで買った物か、どうやって作ったか、原産地はどこか、身体にイイものかなど、いろんな要素があるのはわかるけど、とりあえず楽しく食べることができれば、きっと美味しいはず。だから、この先は、

どんな食事時間を共有するか?

という感覚的な要素が、重要になっってくると思います。「家庭の味」が大事かもしれませんが、食卓にそろった家族みんながスマホを見ながら、シーンと食べている食卓に「家庭の味」の意味はありません。

 

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