あさイチ「名前のない家事」


11月27日にオンエアーされたNHK「あさイチ」。テーマは「名前のない家事」についてでした。

このオンエアーの企画段階の8月に、僕は取材を受けました。この特集は、大和ハウス工業の「名もなき家事」調査の流れをうけての内容でしょう。この調査の後、僕もいくつか取材をうけましたが、その中の一つが「あさイチ」。

番組では、「名前のない家事」の具体例から、対策例、大和ハウスの家事シェアハウスの紹介など、ひととおり取り上げられていました。

対策は、自分でできる省力化と、誰かと共同化という、僕の「楽家事」講演と同じ構成でした。印象に残ったのは「自分ルールの見直し」という言葉。家事というのはそれぞれの家庭での事情も違うので、比較が難しく「自分ルール」を検証する機会も少ないもの。

比較なくして客観性なし。客観性なくして説得力なし。

「こうやってたたむ」「こう片付ける」に客観性がない限り、「僕のやり方でもいいじゃない」に納得してもらえる返事をするのは難しい。情報はあるようで、実は偏っているのが家事情報。メディアで流れる情報には、「プロの仕事家事」や「家事のやりすぎ自慢」も多く含まれています。「名前のない家事」は、やっとメディアが扱い始めた、一般家庭の日常的かつ「放送で取り上げるような家事か?」的地味な情報で、「自分ルール」の客観化に役立つ貴重な情報の一つとなるはず。

いかに家族に「名前のない家事」をわかってもらうか?というところでは、「やらない」という提案も。番組の中では「本当に必要かどうか『やらない』も含めて見直す」という主旨での提案でした。ですが、僕は、家族に「名前のない家事」の存在を知ってもらい、できるようにしてもらうには、今までやっていた人が「やらない」という方策もアリだと思います。

やっていた人が長期間旅行に出るというのも一つ。やる人がいるから、やらない人が出てくる。やらない人には「名前のない家事」は気付かないし、その必要性も感じない。だからわかってもらえないわけですから。


助けて!きわめびと」で僕は「家事のしんどさが伝わっていないのが、ストレスにつながる」と言いました。「名前のない家事」も同じで、その存在とそのシンドサやメンドウさが伝わっていないのが、「名前のない家事」のイライラに繋がっています。必要かどうか見直すのに併せて、必要だけど「やらない」行動も、担い手の育成には必要。

そういう意味では「見える化」は有効で、文字などで可視化させること自体がメンドウでも、長い目で見た場合、とても大切。ゴミをまとめたり、排水口に溜まった髪を捨てたり…ということを、目の前でやっていても、「自分もやらねば」と思っていない人の視界には入ってませんから。

チャンと存在を伝えると聞くことは、メンドウだけど、それをしない限り、わかってもらえないし、やってももたえない。そもそも、それが「できる相手」だと思ったから、お互い一緒に住もうと思ったんじゃ?

ところで、柳澤解説委員。番組内では、「おやじ」の代表として汚れ役を引き受けてました。彼が本当に「『名前のない家事』だって家事なんだから、家事と思ってやればいいじゃない」「ゴミは僕が出すんだから、まとめてくれてて当然」と思っているのかどうか?はわかりませんが、そんな柳澤さんにひとこと。

柳澤さん、あなたはこれまで、とってもラッキーでした。誰かが洗濯物を干してくれ、運ぶべきゴミは誰かがまとめてくれていて、トイレットペーパーは誰かが補充してくれて…。この先もラッキーが続くといいですが、こればっかりは何が起こるかわかりません。地震への備えが必要なように、これまでラッキーを支えてくれた人がいなくなった時の備えは必要です。

「イザとなったら、オレもやる」と皆さん仰いますが、イザという時に「ウチって、一ヶ月の食費いくらくらい使ってた?」「君の保険証ってどこにあるの?」とは聞けません。聞ける人がいないから、イザという時なのです。イザとなってからでは遅いのです。

「名前のない家事」をはじめ、家事は誰かがやってくれて当たり前!やってくれる人がいて当たり前!ではないというコトを、少しは頭に置いた方が、自分のためにもなると思います。すると、今のラッキーな状態に「ありがたい」と思えるはずです。有り難いことが御座るわけです。「やってくれて、有り難う(ありがとう)」も自然と口から出るはずですよ。
 

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