おすすめ本『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』


家事なんて、自分達が快適に暮らせる範囲でイイんです。
雑誌やテレビで紹介される家事は、あくまでも「あの人」「あの家」の家事。
我が家の家事は我が家のモノ。
誰かの家事基準じゃなくて、自分たち基準の家事で十分。
そんな家事の方が楽だし、持続可能だし。

そんな肩の力の抜けた家事をしたい人におすすめの本です。もちろん、これはそのまんま、僕のおすすめ家事のスタイル。そんな家事をするのに「ちょっと気が引ける」「負い目を感じる」という人は、是非、この本を読んで、堂々と「しすぎない家事」をして欲しいです。堂々とするための、言い訳(理論武装)のネタをこの本が与えてくれます。そして、きちんとよりも、大切な家事基準があることに気付かせてくれます。

僕がこの本にタイトルを付けるなら、『オーバースペック家事はいらない』でしょうか。

特に僕の興味をひくのはp42からの「分業を阻む『きちんと』」の項。夫の家事参加が必要というのは、多くの人もなんとなく理解していること。ところが、実態は総論賛成各論反対。僕が思うに、あまりにも高スペックな家事基準が、新参者(夫)を阻み、その結果、「自分がやった方がメンドウにならない」「せっかくやっても文句だけ」という(言い分もよくわかりますが)残念な結果になっているのではと。男性側からは、しばしば「参入障壁が高すぎる」という話を聞いてきましたが、女性からもこれが指摘された点は、今後の展開にとって大きい一歩だと思います。

実は、僕も反省させられる箇所がありました。p38で書かれていた、「手抜き家事」企画ですら「きちんと」を要求されたという件。僕も基本的には「手抜き家事」「楽家事」「省力化家事」の推奨派ですが、もしかしたら、これまでに「きちんと」や「しっかりと」という某国の政治家が多用する言葉を、無意識に盛り込んできたかもしれません。そんなチョットした言葉にも、「きちんと家事」の呪縛の深さを感じさせられました。

この本は、「家事のしすぎ」を諸外国の豊富な家事例と比較しながら、また日本の過去の家事にも触れ、現代日本の家事事情が特殊であることを浮き彫りにしています。古今東西、こんなに家事しすぎているのは、今の日本くらい。それを「固有の伝統文化」として位置づけ、維持しようとすると、どうしても無理がうまれます。

実は、昭和の中期まで、長きにわたって日本の家屋はほこりだらけだったのです。木と土の家で、窓にアルミサッシはありません。すき間風とともに舗装されていない道路の砂埃が、家の中に入り込むのが日常。家の中にも土間があり、外の砂がそのまま入ってくる。居間には囲炉裏があり、そこでは薪が使われる。灰もすすもでる。地方によっては、一つ屋根の下に家畜を飼っている家もあるくらい。掃除した状態が、ほこり一つない状態とイコールになるのは、サッシや高気密住宅が広まった最近のこと。「母親の家事が基準」が「きちんと家事」の基準とはいえ、それが祖母の世代になると、もはや基準として採用されるかどうか、人によって地方によっては微妙。こうみると、今の掃除がいかに高スペック要求か。

この種の家事本の反発として「きちんとして何が悪い」という意見があります。僕の楽家事に対しても「わかるけど…ちゃんとしたいし…」という意見もあります。決して「散らかそう!」「いい加減にしよう!」と言ってるのではないのです。「家事のしすぎ」「片付けすぎ」という「すぎ」を問題にしているのです。「最適な家事いい」「最適な家事いい」というスタンスなのは、僕もこの本も同じ。それを家族で共有できていればイイのです。「最適な家事」がよそから見れば「やりすぎ家事」だとしても、それで家族が納得できていれば、それはそれでイイのです。自分たち基準の家事を見付けて欲しい…という生き方についてまでは、この本では書いていませんが、そういうことも言いたかったのでは?と読み取りました。

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